「おやっ!!」

その昔、偶然小学校1年生当時の通知票を見つけました。「美声ではないが、正確に歌う」と記入されていました。「おやっ」私は驚き、これをきっかけに音大志望をあきらめ、薬剤師になることにしました。

薬学生の4年間は「歌を忘れたカナリア」のように音楽を遠ざけての生活をしました。さらに、薬剤師になって数年は仕事に夢中の毎日を過ごしておりました。
 久しぶりに出席した研修会で「山が動きました」と講師の先生が切り出されました。「おやっ」昭和63年「入院調剤技術基本料」(現在の薬剤管理指導業務)が100点として登場したのです。
 それまでの薬剤師はほとんど調剤だけの毎日でした。それが今度は外来の患者さんを院外の薬剤師にお願いし、入院の患者さんは病院薬剤師がきちんと関わるということでした。薬剤管理指導業務を知れば知るほど「これは大変!」。患者さんの情報収集やベッドサイドでの説明、看護婦や医師との連携プレー、注射調剤、ざっと考えてもこれだけ浮かぶのです。
 「この業務をすぐ取り入れますか」と問い掛けたのは病院長でした。「すぐには無理があります。検討の上、必ず実施したいと思います」と私は答えました。
 まず、ひとりひとりの薬剤師がこの業務を十分把握理解しなければいけません。また院外処方箋発行のことも考えなければなりません。私は研修会で得た「お手本」を元に、勤務先の病院に合わせた実施内容を検討することにしました。学ぶべきことは山のようにありました。

平成3年の春、家族全員の希望で我が家にパソコンを購入いたしました。夫や子供達はすぐに触り、毎日夢中になっていました。私はむやみに触って、壊しては大変と怖がっていました。ちょうどその頃、「院内医薬品集」を「最新版に直して」という要望がスタッフから出ました。それまでと同様に、また手作りで作成しようとしていた私に「パソコンを使ってみては」と子供達が言いました。「さあ、大変」。いよいよIT革命へ突入です。

私はまず本を読みました。「おやっ」そこに書かれている言葉がほとんど理解できません。グズグズしている時間がないのです。一大決心をして、休日にスクール通いを始めました。毎晩仕事から帰宅後、自習を繰り返しました。そして「院内医薬品集」を3ヶ月でどうにか完成させました。この激務のおかげで、その後は「ワープロソフト」や「表計算ソフト」、「データベースソフト」もまずまず使いこなし、今では家庭でも職場でも必需品となっております。

平成9年「薬剤情報提供義務」が明文化されました。「おやっ」またまた大変な事態でした。医薬品一品当りの情報を見てもかなりの量です。勤務先の病院では800品前後取り扱っていました。この莫大な情報量を的確に選別して提供しなければなりません。限られた人数では無理があります。そこでコンピュータ導入を病院側へ申し出、すぐに薬局への設置が決まりました。そして9月からコンピュータを使って「お薬について」を発行するようになりました。

平成11年に入り、DI室や注射調剤室が設置されました。やっと環境が整い、ついに「薬剤管理指導業務」の届けを同年6月末に行うことが出来ました。
 ところがその夏の終わり頃、「医薬分業にします」と発表がありました。「おやっ」いきなりでした。確かに6月の届け以来、なかなか軌道にのらない「薬剤管理指導業務」でした。しかしその後の展開は私の思惑とは食い違いました。病院の医療チームを支える薬剤師チームの一員であり続けることが私の願いでした。誠に残念でした。こうして私は20余年苦楽を共にした仲間との別れを決めました。

平成12年1月24日朝7時30分、昨日までとは反対方向へ私は車を走らせていました。新しい勤務先への出勤です。多くの方々の励ましを受け、4番目の職場に恵まれました。
 新しい職場では新しい仲間との出会いがありました。院内医薬品集の改正、パソコン導入、DI室設置、薬剤管理指導業務実施、薬事委員会設置、マネジメント委員会設置などの取り組みも一歩一歩進み、実現してまいりました。
 今のところ、新しい職場で「おやっ」と思うような出来事はまだありません。今後も人生色々、「おやっ」と気づく心を持ち続け、毎日を過ごして行きたいと考えております。