お薬お渡し口

(参考資料)

上田病院の玄関を入ると、右手より受付、会計、お薬お渡し口と書かれたコーナーが目に入る。これらの前に向かって五十脚の椅子が整然と並べられている。

いつものように朝九時十分、恵子は調剤室勤務薬剤師のミーティングを終え、窓口に向かった。忙しい一日の始まりである。

調剤済みのお薬がドンドン恵子の許に届いて来た。恵子は神経を集中させ、薬袋の束と処方箋、お薬説明書を確認した。「松下昭夫様、松下様」と大声で、呼び出した。待合い席から中年の男性がゆっくり立ち上がり、進み出た。「恐れ入りますが、診察券を拝見させていただけますでしょうか」。恵子の呼びかけに、少し面倒と言いたげに、胸ポケットからカードを取り出し、無造作に「はいよ」と差し出した。診察券のカルテ番号、名前、生年月日を処方箋と照合した。

「松下様、お待たせいたしました。本日は泌尿器科のお薬ですね。いつものお薬の他におしっこの中のばい菌を抑えるお薬、炎症や痛みを和らげるお薬が出ております。いつものお薬は2週間分、こちらのお薬は1週間分となっております。袋はお薬の飲み方や日にちで別々になっております。またこれはお薬の説明書です。各々のお薬の飲み方と効き目、保管する時の注意が書いてございます。お帰りになりましたら、ご覧下さい」

恵子はお薬と説明書を差し出した。彼は診察券をしまいながら、「袋に入れてよ」とボソリと言った。恵子は、思わずむっとしたがグッと耐え、殊さら笑顔でビニール袋を差し出した。「どうぞ、お使いになって下さいね」としっかり答え、すぐに次の患者を呼び始めた。彼は仕方なく、自分に与えられたものをワシづかみにして、そそくさと立ち去った。

11時を過ぎるころ、窓口はにわかに混雑し出した。多くの患者が待ち遠しげに窓口を眺めていた。その視線を受けながら、恵子は呼び出しを続けていた。その時、窓口の横から顔馴染みの患者がいらいらした様子で声をかけた。「ねえ、私、今日は湿布薬だけなのよ。ほら、あなたのすぐ脇にあるじゃない。早くしてよ」。恵子にとって一番困るケースである。分かってはいても、出来上がったお薬はなるべく順番で呼ばなければ、後々トラブルが続くことが多いからである。

「お待ち下さい。今順番にお呼びしておりますから。もうすぐですからね」となだめるように頭をちょっと下げた。

恵子の困った顔で察しがついた様子で、彼女は黙って後ろに下がった。

次に若い母親が進み出た。「先ほどお薬を貰った武田美紀です。塗り薬もあると先生からの話でしたが、貰っていないのですが。調べて下さい」「それは申し訳ございません。お調べしますので診察券をお借り出来ますでしょうか」。

恵子はカードを受け取り、そばの若い薬剤師に細かく指示した。「武田様、今追加のお薬をご用意いたしております。もう少々お待ち下さい」。若い母親はうなずき、窓口から少し離れた。

このようなやりとりを繰り返しながら恵子は、次々とお薬を渡していった。そしてようやく午前診療終了の連絡が恵子の許に届いた。午後130分をとうに過ぎていた。そのあと最後の患者にお薬を渡して、やっと昼食に向かうことができた。

「お薬お渡し口」はほんの数年前まで「投薬口」と呼ばれていた。患者が単に患者と呼ばれ、医師が診てやる、薬を作ってやるという感覚で業務が行われていたころのことである。今日では、医療はサービス業と理解されるようになった。患者はお客様であり、患者が医療機関を選ぶ時代になったことがこのことを証明している。このような様変わりの現状を強く意識しながら、日々の仕事に取り組む恵子は、もうすぐ病院薬剤師として10年目を迎えようとしていた。