魔法の手帳

私の病院薬局勤務は大学卒業3年後のM赤十字病院からです。この病院は当時でもとても古い木造の2階建てで、いかにも歴史のある病院でした。勤務当初は西も東もわからず、ただ言われるままに整理整頓や掃除をしていました。しばらくしていよいよ、取り扱っている薬の名前を覚え、また約束処方の薬を覚えなければなりませんでした。

約束処方とは、よく使われる薬の組み合わせ(処方)に名前をつけたものです。ですから、その名前を使うことで個々の中身の薬まで言及する必要がなく、とても効率的なのです。たとえば一散(いっさん)といえば胃腸薬で、4種類の薬を混ぜて作ったものです。このほか、水薬の塩リモ水(えんりもすい)や遠仁水(おんにすい)などを、昔はよく使いました。

約束処方でよく使われるものは、製剤室で担当薬剤師が一度に多量に作っておき、調剤室の現場は、処方が出ればそのまま必要量を取り分けるだけ、というようになっておりました。
約束処方は粉薬や水薬、目薬、点耳薬、軟膏と、実に50種類以上もありました。汎用薬は内容もしっかり覚えましたが、まれに使う薬は、名前と効能の丸暗記でした。そして私の白衣のポケットには、これらを書いた手帳がいつも収まっており、ことあるごとに目を通し、また書き込みも増えていきました。

結婚・出産や数回の引っ越しにもめげず、どの病院に勤務となっても、この手帳は私の手元にありました。さすがに病院薬剤師経験が20年を越すころには、もう毎日ポケットにあることはなく、机の引き出しに収まるようになりました。

でも昔からの薬の知識はひよんなことで役に立つことが今でもあるのです。それは、約束処方や院内特殊製剤は、時として既製の薬にはない作用が見られたり、何より安価であることが多いため、お得なのでした。

2004年、年末年始の休暇を終えて出勤すると、「見てください」とスタッフが声をかけてきました。導かれた病室には、腸ろう造設をしたK様がいらっしゃいました。

この方の場合は、腸の一部にチューブを挿入し、そこから栄養剤を入れ、栄養補給をしているのです。

見ると、腸ろうのチューブの周りに腸液の滲出が見られ、その部分の皮膚が赤くただれています。この患部の消毒などの処置時は、滲みて痛みもありそうで、とてもお気の毒でした。転院当初は腸ろうチューブと肌の間には隙間はなく、腸液の漏れは少なかったとの情報でしたが、その後は日増しに漏れがひどくなっているようでした。

そこで滲出液を吸収させるべく、少しスポンジ状になった医療材料を貼り付けることを提案しました。また滲出液が直接肌に触れないように、水をはじく効果のある軟膏も考えることにしました。

こういう時に、例の手帳が役に立つわけです。皮膚科の塗り薬の項目から亜鉛華単軟膏を主薬にした約束処方を見つけました。早速薬剤師のA君が取り組み、ほどよい練り薬が出来上がり、これを看護師がチューブの周りに、土手を築く要領で塗っていきます。さて翌日、この患部を見てみると、腸液がこの軟膏でせき止められた部分の皮膚は赤みがとれ、少し回復していました。やれやれまたしても、「魔法の手帳」のお世話になったわけです。

以前、皮膚科の先生が往診に来てくださった際、出された処方がどこかで見たような気がして手帳を見ると、まさに載っているではありませんか。よくよくお話したところ、偶然にもその先生も、赤十字病院に勤務されていたそうで、処方からも懐かしさを感じたものです。